ヴィンセントが教えてくれたこと

9月4日(金)より全国ロードショー、全国ロードショー

さあ、人生のホームワークを始めよう。

 

昨年9月、トロント国際映画祭で『ヴィンセントが教えてくれたこと』のワールド・プレミアが行われると、現地はたちまち興奮と感動の雰囲気に満たされた。

 ビル・マーレイに対する評価はとりわけ高く、「オスカー候補入り間違いなし」「彼のキャリアで最高の演技」との声も、ずいぶん飛び交った。残念ながら、オスカーノミネーションはかなわなかったものの、ゴールデン・グローブの主演男優賞(コメディ/ミュージカル部門)にノミネートされたほか、多くの批評家から絶賛を浴びた。「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙は、今作を「ビル・マーレイのキャリアをあらためて評価するにふさわしい作品」「ロサンゼルス・タイムス」紙は、「この映画で、マーレイは、しょっぱくて、酸っぱくて、酔っぱらったような、独得のコメディのニュアンスを見事に実現させた」と書いている。

 この映画を、マーレイ無しで考えることは、まったくもって不可能だ。映画の始まりで、ヴィンセントは、お金がなく、性格も不真面目で、人当たりも決して良くない男。だが、マーレイは、そんな人物にも、愛すべき人間味をプラスし、観客をどんどんストーリーに引き込んでいく。だからこそ、物語が進んで彼の事情が少しずつ明らかになる時に、観客は、違和感を覚えることなく、より深く感情移入していけるのだ。

 70年代にライブコメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」でダン・アクロイド、ジョン・ベルーシらと共演し、大ブレイクを果たしたマーレイは、ビッグスクリーンでも、『ゴーストバスターズ』『恋はデジャ・ブ』など、コメディで主に知られてきた。しかし、2003年の『ロスト・イン・トランスレーション』では、キャリア初のオスカー主演男優部門ノミネーションを果たし、カンヌ映画祭でプレミアされた2005年の『ブロークン・フラワーズ』での演技も評価されるなど、近年はますます、シリアスな俳優としての実力を証明してきている。キャラクターが内面に隠す不安や傷ついた部分を、ユーモアをもちつつも繊細かつリアルに表現できることこそ、マーレイの持って生まれた最高の才能だろう。

 マーレイは、今作で、優秀で頼もしい共演者に支えられてもいる。それぞれの俳優がもつ従来のイメージを打ち破るキャスティングもまた、この映画に新鮮さと素敵なサプライズを与えていると言っていい。

 一番の例は、ヴィンセントの隣に引っ越してくる女性マギーを演じるメリッサ・マッカーシー。日本での知名度はまだ低いが、2010年から放映されているテレビのコメディ番組「Mike & Molly」に主演するマッカーシーは、アメリカでは誰もが知る大人気コメディアンヌだ。映画でも、サンドラ・ブロックと共演したアクションコメディ『The Heat』を爆発的にヒットさせたほか、『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』では、オスカー助演女優部門にノミネートされている。今作でも、おそらくたっぷり笑わせてくれるのだろうと思っていたが、良い意味でその期待は裏切られた。この映画でのマッカーシーは、ひとり息子を守ろうと必死の、苦悩を抱えたワーキングマザーに徹している。

 同様に、ナオミ・ワッツをロシア人のストリッパー役に起用するのも、相当に型破りの発想だ。オスカー候補俳優テレンス・ハワードや、トニー賞候補俳優クリス・オダウドが小さな役で出演しているのも、脚本や、そこに描かれるキャラクターがいかに魅力的だったかを語っていると言える。

 しかし、なんといっても、今作でのマーレイの最高の共演者は、少年オリバーを演じたジェイデン・リーベラーだろう。ペンシルバニア州生まれのリーベラーは、演技のレッスンを受けたことのないまま、昨年北米公開されたインディーズ映画「Playing It Cool」で映画デビューを果たし、今作で初めて主要な役にキャスティングされ、ラスベガス映画批評家協会とフェニックス映画批評家協会からベスト子役賞を受賞したほか、いくつかの賞にノミネートされた。次回作は、5月北米公開のキャメロン・クロウ監督の恋愛映画『Aloha』ほかにも、クライブ・オーウェン主演のコメディ『The Confirmation』や、ジェフ・ニコルズ監督のSF映画『Midnight Special』をすでに撮り終えており、これからも頻繁にスクリーンでお目にかかる機会がありそうだ。

 批評家だけでなく、観客からも愛された『ヴィンセントが教えてくれたこと』は、1300万ドルという比較的低予算で製作され、たった4館での限定公開で始まったにも関わらず、最終的には北米だけで4400万ドルを売り上げた。観客の感想を調査するシネマスコア社の調べでも、Aマイナスと、非常に高い成績を獲得している。東海岸や西海岸の大都市だけでなく、アメリカの中心部の小さな街でもヒットしたことからも、今作が一般アメリカ人から強い共感を呼んだことは明らかだ。

 セオドア・メルフィは、今作で長編映画監督デビューを飾った新人監督。この成功を受けて、すでに、次の監督作が決まっている。来年出版予定の小説「Every Exquisite Thing」の映画化で、脚色もメルフィが担当する。主人公は、ティーンエイジャーの女の子だそうだ。ヴィンセント役を演じてもらうため、相当な時間と労力をかけてマーレイを説得したとされるメルフィが、次のヒロインにどんなおもしろい選択をするのか、今から楽しみだ。